Notice
Teaching and Acting
こんにちは! 育志館・加茂スクールの辻本晃平です。
以前からこのブログでも何度か語学や教育に関連する映像作品を紹介させていただいていますが、何を隠そう、僕は無類の映画好きなのです。実は、学生時代には、友人が撮る映画に出演したりしたこともあります。役者として。
この仕事を始めたとき、「教師という仕事は、役者のそれと似ている」という趣旨のことを先輩に言われたことがあります。
後で分かったことですが、この教育の業界ではどうやらそのように喩えられることが珍しくないようですね。
僕はこれまで何度も似たような喩えを聞いてきました。
その意味するところはおそらく「僕ら教師が生徒たちの前に立って話すときには、ある種の『役』を演じる必要がある」ということなのでしょう。
つまり、塾講師とて一種のサービス業にあたるわけだから、生徒の前で話をするときは素の自分などは捨てて、生徒が授業を真面目に楽しく受けられるよう、明るく元気にしっかり声を張って授業をしなさい、ということです。
時々、「模擬授業」という形で、僕ら教師も他の先生方の授業を見せていただくことがあります。
演技というアナロジーに沿っていえば、いわば彼らの「役」を見せていただくわけですね。
つい先日もそのような機会がありました。
教室にやってきたその方は、おそらく普段は絶対に出さないような大きな声を張り上げ「元気溌剌と」誰もいない机に向かって授業をしておられました。
きっと本人には、子供たちが楽しんで受けられるような「明るい授業」を展開する意図があったのでしょう。
要は大人数を相手にスピーチをするかのようなスタイルです。周囲の細かなことはあまり見ていない。
実に、このような話し方をする先生って、よくいますよね。
そしてその彼は、「どうしてそういう授業スタイルなのか」という疑問に対して「今、全国どこの塾でもこのような指導スタイルなんですよ」という趣旨のようなことをおっしゃっておりました。
他に説得力のある理由は聞けませんでした。
幸いなことにその人は育志館の方ではありませんでした。
ここで僕は、別に彼の指導スタイルを批判したいのではありません。
僕はしがない田舎の塾講師に過ぎませんから、人の授業のやり方に口を出すような勇気もありません。
ただ、かつて映画に携わっていた僕が知っている「演技」というのは、この業界でよく言われているようなことや、模擬授業をしてくれた彼が見せてくれたようなものとは全く別物なのです。
そう、僕はそのことが言いたい。
僕は単なる映画好きにすぎませんから、彼らが軽々しく「演技」という言葉を口にするときでさえ、「それでは役者に対して失礼だ」とまではさすがに言う資格はないでしょうが、それでもこの業界の人たちが使う「演技」という言葉に対する疑問というか、わだかまりのようなものは、教師を始めて以来、常に僕の中にありました。
少し演技の話をさせてください。どうかおつきあいを。
映画の世界で、観客の誰もが口を揃えて役者に「あれは良い演技だった」と言うとき、それは役者その人が演技をしていて、それでいて観客には全く演技をしているようには見えず、あたかもそのフィクションの世界の中を実際に生きているかのように錯覚させることができたときでしょう。もちろん捉え方は人それぞれにあるとして、少なくとも一般論としてそう言うことはできると思います。
不思議なことに、別段目の肥えた人でなくても、このような認識はすでに僕らの中にあるのです。
しかし、それくらい高度なレヴェルでの演技にあっては、ある意味では彼らの演技は「もはや演技ではない」ということを理解している人は、さほど多くはないのではないでしょうか。
それはどういうことかというと、つまり、役者がスクリーン上で泣いたり笑ったりするとき、すなわち彼らの「心」や「感情」が動くとき、その彼の属している世界が普段の現実の世界であれ、あるいは作られたセットの中の虚構の世界であれ(その区別は一体?)彼ら自身は「実際に」そこでの出来事を経験した、ないしは経験したに等しい、といえる、と僕はそう考えています。
石井克人監督の映画「スマグラー」の中に、「本気の嘘を真実に変えてみろ」という台詞がありましたが、端的に言えば、一流の役者が職業的に行っていることは、まさにこのようなことではないかと僕は思うのです。
だから、たとえ映画の中にあっても、またその映画がどんな世界を描いたものであっても、優れた役者がその虚構の中での出来事を現実のものだと心から信じて演技をする限り、その限定された世界の中で彼らは―いいですか―「実際に」泣き、笑い、怒り、喜び、苦しみ、悲しみ、傷つけ、傷つけられ、そして愛し、愛されたりするのです。
イ・チャンドン監督の映画「オアシス」などを観ると、そのことがよくわかります。
私が実際に会ったことのある偉大な映画監督の一人、大森立嗣さんは「芝居というのは『心』が動くことだ」と明言しておりました。
まさにその通りだと僕も思います。
だからこそ映画を観る我々も、そんな彼らの姿を見て感動するのです。
彼らの「心」や「感情」が「実際に」動いているからこそ、僕らの感情や心も動かされるのです。
あるいは逆説的な言い方をすれば、演者の心が動かなければ、観る人の心を動かすことなんてできやしないのです。
映画に出ている役者がへたくそな演技をしたとき、たちまちストーリーは説得力を失い、僕らは一瞬にしてその夢の世界から現実に引き戻されることになります。
ストーリーの中の役に完璧なまでになりきることで、人の心を動かす、感動させるというのが役者の仕事です。
そして役者であれ、あるいは教師であれ、またおそらくは世の意義ある全ての「仕事」には、その根底に多かれ少なかれ「人の心を動かす」ということがあってしかるべきなのです。他ならぬそのことに対して僕らはお金を払うのですから。
一つ演技や芝居以外の例を挙げましょう。
僕の親友に営業マンをしている人がいます。
本人から聞いただけ話なので実際のところは分かりませんが、彼の営業の成績は「すこぶる良い」ということです。
なんでも、社ではトップ?だとか。
そして「その秘訣は?」と聞くと、「売ろうとしないことだ」という答えが返ってきたのが印象的でした。
「ではどうするのだ?」、と聞くと、彼は「ただ相手と仲良くなるのだ」と言います。そうすると結果として営業が上手くいく。
どうですか?
この話は僕らの生活において、相手の心を動かすかということがいかに大事かということを示してはいると思いませんか。
ようやくとなりますが、ここから本題に入らせて下さい。
前置きが長くなりましが、教師も、役者と同じことが言えるのではないでしょうか。
どういうことか。
僕はこの業界の方たちがよく使うアナロジーを、その意味を、今一度考え直したい、他の人にも考え直してもらいたいのです。
教壇、つまりは一種の「虚構」の上に立って生徒たちの前で話すということは、ステージの上の役者、スクリーン上の役者と変わらない。
だとしたら下手な演技は見せてはいけない。
ここまではいい。
けれども「真に人の心を打つ演技というのは、単に演技をすることではない」という脈絡で言えば、プロの役者でも何でもない僕らは、そもそものはじめからそんなことはしない方がいいのではないだろうか、ということです。
素人役者や子供が、演技のことなど何も考えていないのに、スクリーンに映し出された彼らの姿は驚くほど生き生きとしている、ということは多々あります。
そんなことよりも僕らは、一体自分の授業の中でどんなことが生徒たちの心を響かせるのかということに常に神経を傾けるべきだ。
僕ら教師が真にすべきことは、子供にも見透かされるような上っ面だけの「演技」をして勉強を教えることではなく、生徒一人ひとりと正面から向き合い、深く彼らのことを思い、互いの心を通わせてコミュニケーションをとることではあるまいか。
そのために必ずしも大きな声を張り上げる必要はないはずでしょう。
先に書いた模擬授業をしてくれた彼のような指導スタイルというのはどこかの「大企業仕込み」の二番、三番煎じに過ぎないものだと僕はほとんど確信しています。
大企業は一般に利潤追求への意欲が高い。あるいは高すぎる。そうでもしないことには存続できない。
大きな塾では、一人の教師の手に余る生徒数を抱えてしまった結果、一人一人の生徒にきちんと目を配ることができなくなる。
だから強引にでも全体をとにかくまとめ上げる力が必要となる。
そこで、彼のような指導スタイルが、いわば一種の「マニュアル」として登場することになる。
繰り返しますが、僕はそのような指導スタイルそのものを批判するのではありません。
素晴らしい役者が滅多にいないのと同様、そのスタイルが成功している例は僕はほとんど見たことがありませんが、うまくいくことだってあることは確かなのでしょう。
でも育志館のような個人経営の塾においては、世間一般の「マニュアル」めいたものなどを排して、教師が生徒ときちんと密なコミュニケーションを取れるということこそが、他ならぬ僕らの「強み」であるはずなのです。
むしろ僕らはそのような強みを積極的に生かしてゆくべきだ、と僕は考えています。
それは例えばスーパーマーケットと八百屋の違いです。
今の日本のスーパーマーケットでの買い物には、金銭と品物の授受行為があるだけで、店員とのコミュニケーションはほぼ皆無です。
かつて少年少女がしたような、近所の八百屋におつかいに行き、おじさんに自分の買いたいもの直接伝えたりする、というようなことが今ではほとんど出来ない。
おまけのリンゴはもう貰えない。
そして周囲の大人や地域社会の成り立ちといったものをよく理解しないままに子供たちは成長してゆくことになる。
僕らは、かつてあった八百屋のように、都会の他の大きな塾にはそう簡単に真似できないような物事を、もっと強く打ち出してゆくべきなのです。
さもなければ、もう、生き残ることが出来ない。そういう時代です。
だから僕は、授業でも(ないしは人生においても)安易なマニュアルに頼って、試行錯誤を怠ってはいけないと考えています。
半端な「演技」やまた「キャラを被る」ことが癖づいていると、かえって邪魔になるだけです。
これは僕の経験から言うのだけれど、マニュアルを必要とするのは、その大抵がそのような努力をして生きてゆくことを放棄した、底の浅い人間でしかありません。
一人一人の生徒と向き合い、常に努力をする。そしてそのような努力の先で、一人一人の教師が時間をかけてその人「固有の」指導スタイルを身につけてゆくことで、初めて教師としてのその人の、演技でない「役」が形作られてゆくということになるのではないでしょうか。
今回は、ずいぶん長くなってしまいましたが、最後までお読みいただき、有り難うございます。
長文・乱文失礼しました。
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