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世界史の中のパンデミック②

育志館大学受験科ウィンゲート講師の一色です。

 

前回に続いて今回も、世界史にとても大きな影響を与えたペストの大流行のお話です。

今回はAD542年から543年にかけて発生した「ユスティニアヌスのペスト」をご紹介しましょう。

 

世界史選択の人はユスティニアヌスという名前にピンとくるかもしれません。

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世の名前から取られています。

その名の通り、彼の治世に東ローマ帝国全体を襲ったパンデミックで、首都コンスタンティノープルでは人口が半減したとも言われているほどかなり大規模なパンデミックでした。

 

ここで少し当時のローマ帝国を復習しておきましょう。

ローマ帝国という名前が紛らわしいのですが、そもそもローマ帝国はローマを中心とした西部よりも、コンスタンティノープル(ビザンティウム)を中心とした東部の方が発展していました。

コンスタンティヌス帝が東西統一後の本拠地をコンスタンティノープルに定めたのもそのためです。

さらにキリスト教にとっても、特に重要な聖地とされる五大総主教のうち4つが東部にあるので、信仰上も東部の影響力は大きかったのです。

 

5世紀になって西ローマ皇帝はオドアケルによって廃位され、帝位は一旦東ローマ皇帝に返上されました。

その後ローマは東ゴート王国が支配するのですが、ユスティニアヌスにとっては自分は東西ローマ帝国唯一の皇帝であるという意識があります。

再びローマを支配してかつての統一ローマ帝国の威光を復活させようと、イタリアに軍を派遣しました。

しかし一方の東では、東ゴート王国の工作によってササン朝が平和条約を破棄して侵攻を開始。

東ローマ帝国は東西から挟み撃ちにされてしまいます。

 

ユスティニアヌスのペストはそんな東ローマ帝国の危機の真最中に起こったのです。

当然食糧生産力は激減しました。

当時の戦争は食料の確保が勝敗を決めるといっても過言ではありません。

そんな厳しい中なんとか戦線を立て直し、ササン朝とは引き分け、東ゴート王国は20年近い年月をかけてようやく征服に成功しました。

 

戦争自体は東ローマ帝国の勝利と言っていいのですが、長引く戦争とペストによって東ローマ帝国の経済はガタガタです。

にも関らず、莫大な戦費を賄うために民衆からは過酷な税の取り立てを続けました。

このような財政が長続きするはずがありません。

結局イタリア半島を維持し続けるのは難しくなり、ユスティニアヌス帝の死後すぐにランゴバルト王国に奪われてしまいます。

その後西部の領土のほとんどを失ってしまい、さらにはキリスト教会が東西に分裂したことで、ヨーロッパにおいて東ローマ皇帝の権威が復活することは二度とありませんでした。

ユスティニアヌス帝の悲願である東西統一ローマの復活は夢と消えたのです。

 

その代わりにヨーロッパの権威となったのが、ローマ教会です。

ローマ教会は他の4つの教会から独立し、さらにフランク王国と接近することで、第2のローマ帝国を作り上げてしまうのですが、それはまた別のお話です。

 

結局パンデミックによって東ローマ帝国は西の再征服に失敗したわけですが、そもそもこのパンデミック自体、戦争が原因であるとの見方があります。

感染病が広大な範囲に広がるには、大規模な人の移動が必要です。

交易の発展が原因となることもありますが、大規模な戦争によって大勢の兵士が異国との間で行き来するのも、パンデミックのリスクにつながるのです。

考えてみれば、前回紹介したアントニヌスのペストはローマとパルティアとの戦いの最中に発生しています。

さらにさかのぼれば、ペロポネソス戦争中のアテネでもペストではないですがパンデミックが発生しています。

戦争とパンデミックには密接な関係がありそうですね。

 

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